熊野大花火大会の歴史
三百余年の伝統を誇る、熊野大花火大会の起源は、お盆の初精霊供養に簡単な花火を打ち上げ、その花火の火の粉で灯籠焼を行ったのが始まりといわれています。
時代とともに花火の規模が拡大しても本来の目的である初精霊供養の要素は消える事が無く、現在の花火大会でも、初精霊供養の灯籠焼きや追善供養の打ち上げ花火などがプログラムに組み込まれています。
現在の花火大会に残る、
初精霊供養の灯籠焼
熊野大花火歴史年表
起 源 |
記録は明らかでないが熊野花火の起源は250~300年前とも言われる。海上交通が盛んだった三河地方の花火に続く古い歴史と伝統をもつ行事として受け継がれた。 |
藩政時代 |
木本(現在の熊野市木本町)極楽寺の芝生で初精霊供養の松引き行事の柱松の花火として、お盆の16日に簡単な打ち上げ花火を行う。明治維新までは十数名の花火師が技を競う。 |
明 治 時 代
明治元年 |
木本民生局知事・堀内信が柱松の花火を禁止 ※この頃の花火 松揚げ(たいまつを投げあい点火を競う柱松)、柳子火車、金山寺、大流星の仕掛花火、連星 |
明治10年頃 | 盆の16日の花火が井戸の水大師参拝客などの関係で21日に開催されるようになる。八朔の灯籠焼き行事も21日に行う。 |
明治19年 |
矢の川道路(尾鷲~熊野間)開通式に木本始まって以来の盛大な花火を打ち上げる。 ※この頃の花火 七寸玉、八寸玉 |
明治25年 |
当時の衆議院議長・星亨が木本へ来た時に、極楽寺の芝生で盛大に歓迎花火を打ち上げる。この後、花火打ち上げ場所が海岸へ移る。 |
明治30年 |
松阪の絵師・青木梅岳(花火作りの名人)が木本へ来て花火の技工を教え、花火技術が格段に向上する。 |
大 正 時 代
大正10年 |
木本の若衆組が主催してお盆16日の追善花火と9月1日の八朔花火とを初めて合同で打ち上げる。花火師は河上煙火部、山口煙火部で新宮(和歌山県新宮市)など近郊から多くの見物人が訪れる。 ※この頃の花火 藤の棚、玉火、百花園、合同灯籠焼き |
大正12年 |
木本町奥川家(二代目)と上田家(初代)の初盆供養の競演花火大会があり、1万人の大観衆で賑わった。花火世話役の若衆組が青年会となり花火の寄付集め、番組編成をする。 ※この頃から追善花火に観光花火の要素が加わる。大阪・三河の仕掛花火、20mの大柱松。 |
大正13年 |
花火好きだった森本佐兵衛氏の追善花火で約100発の打上花火をした。この年の初盆家庭は130軒。 |
大正14年 |
この頃、熊野市内に7〜8件の花火業者が存在し、広くシンガポールへ輸出を行っていた。 この年の初盆家庭は85軒。 |
昭 和 時 代
昭和2年 | この年の仕掛花火は、夏宵の彩雲、暗中四声と銘打つ「ついぜん」の4文字をあらわす。「千条の錦糸、長汀に躍る」 「夏園の夏花満天の採光」と名付けた藤の棚や百花園。南紀、三輪両自動車株式会社の交通機関も観客輸送の強化に努める。 |
昭和5年 |
連星の競技大会を開催。仕掛花火は 1.磯辺の岸 2.那智の滝 3.ナイヤガラ の順で人気を呼ぶ。競技の連星は素人組みが入賞。 |
昭和6年 |
木本保勝会が設立され、木本花火の世話役も木本保勝会が担当。満州事変の勃発で戦時色が濃くなり、仕掛花火にも「神州の誇り」、「爆弾三勇士」、「戦線万里」などの名称が登場した。 |
昭和7年 |
この年から「鬼ヶ城大仕掛」が登場する。鬼ヶ城の洞窟の反響を利用した爆音と百花園の炸裂で数万人の観衆を魅了させる。 |
昭和8年 |
奥川家、上田家の第二次競演で300発の追い打ち、早打ちが行われる。万一の場合備え、在郷軍人会が警備小隊を出動させ小雨の中で決行され、「御浜の華」、「洋上の楽園」、「戦線万里(万里の長城を描いた仕掛花火)」などと銘打つ仕掛花火が海と磯と砂浜をフルに取り入れた花火の競演が行われる。 |
昭和9年 |
戦前花火の全盛期。呼び物は「御浜ドライブレビュー行進曲」、「怒涛の華」、「鬼ヶ城大瀑布」など。この年も連星競技が行われる。 |
昭和10年 |
この年の呼び物は、「郡魚乱舞(海中打ち込み)」、「吉野熊野国立公園」、「夢の龍宮」、「千万華艶姿の競い」 |
昭和12年 |
日中戦争勃発により、燈火、音響規制があり、戦死者も増え始めたので自粛的に花火も中止になり、灯籠焼きだけを各町支部で取りまとめ合同慰霊祭が三丁目下海岸(現在の熊野商工会議所付近の海岸)で行われた。 |
戦時中 |
花火大会が中止。木本の花火師も次第にいなくなった。 |
昭和21年 |
木本花火が復活。8月24日に戦後初めての木本花火が行われる。 |
昭和27年 |
この年から盆の帰省客や日曜などの関係で8月20日前後に花火大会を実施。 |
昭和30年 |
この年から主催が木本観光協会より熊野市観光協会(昭和30年6月発足)になる。後援は吉野熊野国立公園協会三重県支部、天王寺鉄道管理局。 |
昭和38年 |
この年から8月17日に実施されるようになる。 |
現 代
平成5年 | 「三尺玉海上自爆」を初めて実施。熊野大花火大会の名物花火の一つとなる。 |
平成6年 | 花火大会の会場である七里御浜海岸が浸食がすすみ、保安距離の関係上波打ち際からの打ち上げが困難となった為、沖合いに停泊させた台船上から打ち上げるようになる。 |
平成9年 | 正三尺玉の打ち上げを行う。 |
平成10年 | 2発の正三尺玉打ち上げを行う。 |
平成11年 | 世界初、二尺玉4発同時海上自爆「熊野の四季」を行う。 |
平成16年 | 熊野古道世界遺産登録記念・熊野市制50周年記念花火を打ち上げる。観衆は18万人 |
平成25年 |
高速道路が開通したことを記念し「高速開通記念花火」を打ち上げる。 また土曜日開催ということもあり、過去最高の20万人の観衆を記録。 |
平成26年 | 熊野古道が世界遺産に登録されて10周年ということを記念し、「熊野古道世界遺産登録10周年記念花火第1弾」を打ち上げる。 |
令和2年~ 令和4年 |
コロナウイルス感染症の影響により花火大会中止。 |